当社は2001年2月に設立し、今年で10周年を迎える事ができました。
会社を設立するときには、10年という年月に対する感覚は、今とは全く違っていたのですが、こうして実際に10周年という年月を経てみると、その重みとか、支えてくれた社員の方々、その家族の皆さん、そしてお客様、当社の製品をお使いいただいているユーザーの方々、あるいは取引いただいている全ての組織の皆さん・・・大変な数の方々のお力添えがあって今日の日を迎えることができているという感謝の気持ちがあふれてまいります。
私たちの会社の社名は、「インフォメーションタスクフォース株式会社」といいます。いろいろな方から、社名の由来について質問をいただきます。創業当時、どんな考えで社名をつけたのか、その由来についてお話ししたいと思います。
インフォメーションタスクフォース株式会社 社名の由来
このブログにも何度か記載していますが、独立起業を目指す以前は、東京千代田区にあるソフトウエア興業株式会社という会社で、営業の責任者をしておりました。当時、私と創業メンバーの全員が、このソフトウエア興業の営業開発部に所属し、一つの理想を目指して頑張っておりました。その当時の経験が社名を決める要因になっていることは間違いではありません。
では、当時我々が描いていた理想とは何だったのか?その事をお話ししたいと思います。
私はエンジニア・・・いや、むしろ純粋なプログラマを目指してこの業界に就職を志しました。志した、と書くと聞こえが良すぎます。むしろ学生時代に音楽家になりたいと考えて修行を続けていたのですが、その夢がかなわず、挫折してこの業界に拾ってもらったというのが真実です。
事実、大学を卒業する直前まで、音楽家への道を突き進んでいたのですが、卒業する2週間前にある個人的な事情から、定職に就くことが必要になり、秋葉原の岩本町にあった本屋の店先で「週刊就職情報」を立ち読みしたのがきっかけでした。その就職情報誌をめくりましたが、2月という時期でも新卒募集をしている会社は少なかったのですが、立ち読みしていた本屋のすぐ近くに本社を構えていたソフトウエア興業という会社を見つけたのが、この業界との出会いでした。
音楽家をめざし、昼は作曲家の先生の弟子として活動し、夜はスタジオミュージシャンとして録音の仕事、あるいはミュージカルや演奏会の演奏者としてギャラを稼ぎ、深夜は作曲の勉強という生活をしていましたから、音楽以外の事には一切興味がなかったのですが、何故か、ふと、コンピュータ・プログラミングという世界に興味を持ったのです。なぜ、そう思ったのかは良く分かりません。記憶に残っているのは、「ああ、プログラマになろう」と心の中に突然思ったからなのです。
立ち読みで採用条件を斜め読みし、給料は当時、音楽の世界でのセミプロ活動で稼いでいた金額よりはるかに低かったのですが、決め手は、その時点でソフトウエア興業という会社が設立して10周年だったことです。「10年続いている会社なら心配ないかな・・・」と、単純に考えたことを記憶しています。すぐに本社位置を確認し、目の前の電話ボックスから電話をしたのを覚えています。
こうして自分としてはまさに青天の霹靂。それまで、一瞬たりともサラリーマンになることなど考えたこともなかった人間が、数時間後には面接を終了し、その日の夕方にはCOBOLの教本を持って帰り、翌週には卒業式と入社式(同日だった)を迎えることになったのでした。
入社してすぐに気がついたことは、同期入社の社員のほとんどが、実は半年近くも前からインターンシップ(アルバイト研修と呼んでいた)に参加していて、ほぼ全員がCOBOL研修を修了し、C言語やFORTRANの勉強をしているということでした。これには参りました。これから頑張ろうと考えていたのに、すでに大きく差をつけられてしまっていたからです。その後は、毎日、我武者羅に勉強したのを覚えております。3週間の研修期間中はもちろんでしたが、初めての仕事(NEC我孫子工場でのIBM-PC AT互換機向けドライバ開発)でも、もう食事と睡眠以外はすべて仕事と勉強に費やしたと思います。月当たりの稼働時間が400時間を超えることも普通の状態で、自宅には月に2回しか帰らないという日々を過ごしておりました。
そうして我武者羅に働いているうちに、ふと、頭の中に湧いてくるものを感じることがありました。目の前でプログラミングしているドライバソフトを、こう改造したら・・・もしかしたらネットワークで遠隔で操作できるゲームとか作れるかも・・・とか、莫大な量になってしまい版数管理が大変な開発用ドキュメントをハイパーリンクする方法とか・・・。もし、その当時に特許出願という発想があったら、もしかしたら私の人生はずいぶん違っていたものになっていたかもしれません。兎にも角にも、技術を身に着け、それを応用し、社会の役に立てる・・・そういう発想が芽生え始めたのがこの時期です。
ユーザーの立場になって考えるということ
その後、プログラミングの現場から離れ、提案型営業というスタイルを追い求めるようになりました。つまり、自分自身が考案したシステムを必要としているお客様が本当にいるのか?もし、必要としているのなら、どんな使い方が望まれているのか。そういった事が気になって仕方がないのです。プログラミング現場で苦労した経験を解決するために、ネットワークを利用した分散開発の概念を提案書にまとめました。
まだ、日本語ワープロがPC9801向けの一太郎しかなく、図表を作成するためにAppleのMacintoshでSuper Paintを使用し、プリントアウトした文章と図表を切り貼りするという、極めてアナログな方法で提案書を作成したのです。この提案書をたくさんの企業の方々に見ていただきました。そしていろいろなご意見をいただけたことを覚えております。いくつかの企業の方が、実際にこの分散開発環境を構築するとしたら、どれくらいの費用が必要になるのか教えてほしい・・・とおっしゃるので、見積を作成したこともありました。
見積を作成し、より具体的なプレゼンテーションを行いました。プレゼンテーションといっても、今のようにPower Pointなどありませんから、提案書の要所をOHP用の透明なシートに焼き付けたスライドショーです。プレゼンを実施しながら、お聞きいただいているお客様の表情を拝見し、不本意ながら、この提案は根本的にダメな内容だと、自分自身で思い込んでしまったのです。
なぜダメな提案なのか・・・。簡単にご説明すると、私が企画した提案の内容は、確かに画期的であり、斬新な手法であったはずで、技術的には優れたものだと自己評価していました。しかし、根本的な発想として「私の開発手法」が根底にあり、自由な発想で柔軟に対応できる内容になっていなかったのです。その為、ある開発現場では有効に使える環境であるかもしれないが、他の環境では規制が多く、対応できないことが予測できたのです。プレゼンの途中で、お客様に説明をしながら頭の中が整理されたのでしょうか。途中でダメな企画だと気がついて急に力が抜けてしまったのを覚えています。
新しいサービス、新しい製品を作るということは、もちろん最新の技術が核になっていなければならないけれども、その技術を売るのではなく、その技術がユーザーの役に立つ内容に「変化させて」組み上げる必要がある。そういうことをはっきりと感じ取ったのでした。ソリューションという言葉をよく耳にしますが、真のソリューションとは、最新の技術に支えられていながらも、決してその技術におぼれることはなく、あくまでユーザー視点で価値観を評価できる内容になっていなければならないと思います。20数年前のこの出来事があったおかげで、私はソリューションの真の姿を追い求めていきたいと考えたのでした。
(つづく)





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